人間性の洋の東西、性産業への寛容度
http://hare0008.hatenablog.com/entry/2019/04/24/194416
の続き。
今回はやや簡略化して、「人間性」という言葉を「人間と他の動物は違うという信念」であると定義する。
言わんとするところは同じであり、前回の定義もこう読みかえたほうがすんなり理解できるかもしれない。
前回は「人間性」こそが性産業蔑視の源泉であり、故に人間がトップの生態系が変わらない限り性産業蔑視はなくならないと主張した。
今回は西洋と東洋における「人間性の違い」を検討し、性産業への寛容度と結びつけることでその主張の裏付けを図る。
なおこの記事では「西洋に比べて、東洋のほうが性産業への寛容度が高い」ことを事実として認めた論理構成となっているが、これが真実であることは保証しないし、故にこの記事の内容が真実であるという主張もしない。
さて、改めて前回の復習をすれば、「人間性」とは「人間とその他の動物を分かつもの」であった。
そして性産業は「人間性」を否定するので、「人間性」を無意識のうちに信じている私たちは性産業に忌避感を抱くのであった。
ここで「西洋と比べて、東洋のほうが性産業への寛容度が高い」という事実を考えよう。
「人間性」によって私たちが性産業を忌避するのならば、「西洋と比べて、東洋のほうが性産業への寛容度が高い」ということは「西洋の人間が信じている「人間性」と東洋の人間が信じている「人間性」に何らかの違いがある」ことを意味する。
ここまで書けば勘の良い人は気づいたかもしれない。
そう、宗教である。
2千年前に起こったキリスト教はその後西洋の広い地域で信仰された。
キリスト教において人間は神の子であり、その他の動物とは異なる特別な存在である。
「人間とその他の動物が異なる」ことは当然であった。
キリスト教が西洋の教育、哲学、価値観に与えた影響の大きさを考えれば、現代西洋思想にもその影が色濃く残っていると考えるのは自然だろう。
即ち、西洋においては「人間性」が強く信じられているのである。
(強く信じられているからといってそのことに自覚的であるとは限らない。社会規範や常識によって知らず知らずのうちに私たちが存在を信じているものは数多くある。)
一方で、仏教やヒンドゥー教など東洋の宗教においては、輪廻転生を始めとした、人間を世界の一部と考える見方が中心的だった。
そのような見方の中では、「人間と他の動物は違うという思い」の存在感は、西洋のそれと比べて非常に希薄だった。
つまり、東洋人は西洋人ほど、「人間は他の動物とは違う」と思っていないのだ。
・「人間性」が性産業を忌避する
・西洋人のほうが「人間性」を強く信じている
この2つの仮説から、東洋のほうが性産業への寛容度が高い事実が自然に導かれるのは言うまでもないだろう。
今回は「人間性」が性産業を忌避するという仮説について、性産業への寛容度という面から考察し、宗教的、歴史的側面から自然なストーリーで仮説と事実が結びつくことを確認した。
続くかどうかは分からない。