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普通に生きるってなんだろうね

 

ぜーた(id:zetakun)さんが面白い記事を書いてたので感想を書いてみる。

常体で書きたい気分なので常体で失礼します。

 

 

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彼の哲学チックな話は本当に面白い。

残念ながら僕は恐らく彼の言うところの「普通の人」なので、街ゆく人や本の読まれないページを見て、彼のような素晴らしい発想は持てない。

 

凡人からすればそもそもそんな視点が持てることが面白いし、凄いと思うんですよ。

 

 

 

街ですれ違う人たち

 

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この記事も今日初めて知って読んだけど、目の付け所が違うよね。

えす(id:Sakurachannel0530)くんもそうだけど、当たり前のことに対して他人と違う感想を持てるってのは強さだと思う。

 

どうして狂いそうなのか?

おそらく理解されないだろうが、

「街にいる数千の人々にも、それぞれの人生があるんだなぁ」

と考えてしまうのである。そうして私は自分のこの感覚に囚われ、石化してしまう。町中で、突然にだ。

 

確かに言われてみればそうだね。

 

僕は人間というものにある種の連帯感を持っている。

虫が部屋を飛び回るのは嫌だけど、電車で知らない人の隣に座ることは何も気にしない。

 

冷静に考えてみると他人の内側なんて何も分からないのに、ただ人間だからという理由で当たり前のように空間を共有している。

 

もしかしたら目の前の人は人間の皮を被ったゴキブリかもしれないのにね。(そういえばそんな漫画があったな)

 

 

恥ずかしながら僕はぜーたさんの記事を読んで初めてそういうことを考えたのだけど、僕はそこに恐怖は感じなかった。

むしろ宇宙の壮大さというか、物語の多様さというか、そういうものを感じてちょっとテンションが上がった(笑)

(今読み直したらぜーたさんも壮大さっていうワードは使ってた。怖いだけが印象に残ってたけど)

 

 

感性の違いが何に由来してるのかはわからないけど、それもまた一興だよね。

自分と違う考えを眺めるのは楽しい。

 

 

 

生きる意味はないのか

 

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冒頭のぜーたさんの記事でも言及されてたこの記事。

今日改めて読み直していると「そういえばそんなことがあったな」って出来事を思い出した。

 

 

それは僕が友達に「生きる意味って何だろうね」って聞いてみた話。

 

彼は「え、生きる意味なんてないでしょ」と一笑に付した。

曰く、僕らは全てたまたま生まれ落ちた存在であり、そこに意味や使命はないらしい。

巡ってゆく命のサイクルの中の1つのステップに過ぎないのだと。

 

 

確かにそれもまた事実なのかもしれない。

生きる意味なんてものはそもそも存在しないのかもしれない。

 

 

 

ラプラスの悪魔というものをご存知だろうか。

Wikipediaから引用すると、

 

ラプラスは自著において以下のような主張をした。

もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。

— 『確率の解析的理論』1812年

つまり、世界に存在する全ての原子位置運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば(ひとつの仮定)、その存在は、古典物理学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから(別の仮定)、その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができるだろう、と考えた。

 

高校生の時に初めてこの話を知って、「確かに」と思ったものだ。

脳の活動も電気信号に過ぎず、物理の種々の方程式に従うのなら初期条件さえ知ることができれば未来は全てわかってしまう。

 

そういう風なモノの見方をするならば今僕がこうして考えていることも「定められていた未来」であり、レールの上の出来事でしかないのだ。

 

 

・・・生きる意味なんてないのかもしれないね。

 

 

 

 

それでも僕は生きる意味を探したい

生きる意味はないという主張に一理はあるのかもしれないけど、でも僕はそれはとても寂しいなと思う。

ただ無意味に生まれて無意味に死んでいくなんてあまりにも寂しいじゃない。

 

 

ま、未だに手がかりすら見つかってないんだけど。

僕は楽観的な人間なので、いつか見つかるだろうぐらいに思っている。

人生は長い。(とか言ってるとあっという間に終わりそうだけど)

 

最終的に死ぬときに、僕の生きる意味はこれだったって言えるような人生を歩めたらいいなって思ってる。

 

 

 

普通に生きるとは①

やっと冒頭のぜーたさんの記事の話に戻ってきた。

前置きがずいぶん長くなってしまった。

 

かつて親に、普通に生きるってすごくない?と尋ねたことがありました。

それは私の本心で、なんというかうまくことばにできないけど、世の中めぐりめぐっていろんな人が普通に生きてることへの感動でもあり、尊敬でもありました。

 

 どういう思考回路を経てこの言葉に至ったのかは分からないけど、字面通りに受け止めるなら「そうだね」って感じだね。

 

言ってることは分かるんだけど、当たり前の再確認というか。

「そうだね、確かにね」以外に返す言葉はあまりないかな。

 

 

その時、「ああこの世界には、自分の感覚をわかってくれる人間なんていないんだなあ」と、妙に悲しくなったんです。

 

 

ただその後のこの部分に関しては同意するところがあって、他人と自分の感覚の違いというものは僕にとっても悩みの種だ。

 

 

 

僕の悩み①

僕の母親は個人主義者だった。

彼女は常々「最終的に自分の身を守ってくれるのは自分しかいない」と言っていた。

「自分で自分の身を守れるようになりなさい」と。

 

 

まぁそういう人のもとで育ってきたことだけが原因なのかは分からないんだけど、僕にとって自分以外の全ての人間は全幅の信頼を置ける存在ではない。

 

もちろん信頼はしてるんだけど、自分にとって好ましくないシチュエーションも想像してしまう。

上手く言えないけど、「可能性としては低いだろうけど、この人が(言ってることや態度とは裏腹に)本当は僕のことを××だと思ってることもありえるよね」って感じのことを考えてしまう。

 

 

それはもう染みついてしまった習性のようなもので、しかも僕の理性がその考え方にある程度の正しさを認めてしまっているので一生直らないと思う。

 

正しいけど寂しい考え方だよねとも思うけどね。

人を疑うことなんてなく生きていけたら楽しそうだけどね。

 

 

 何度かこういう話を友達にしたことがあるけど同意が得られたことはないので、たぶんあまり一般的ではないんだろう。

 

 

 

僕の悩み②

プロフィール記事でも書いてるけど「人の話に共感するのが苦手」なんだよね。

 

あまり詳細に確認したことはないけど、僕の考え方は悩み①で言った部分以外にもあまり一般的でない部分があるんだと思う。

 

 

人の話を聞いてて、最初から最後まで自分と同じ思考の過程を取ることがあまりない。

それ自体は一般的な事なのかもしれないけど、僕はたぶん許容度が低くて、自分と違うなって思った時に感情がついていくのが難しい。

 

 

理性ではそういう考えもあるよねって思うんだけど、感情はついていかない。

 

 

もちろん感情が揺さぶられることがないわけではなくて、某氏のブログだったり、ちょっと前の話になるけど「君の膵臓をたべたい」とかね。

 

感情的な面での違和感なく話の展開についていける時にはちゃんと感動するので、病気とかではないと思うんだけどいかんせん頻度が低い。

 

 

 

自分と他人の感覚の違い

こういう風な違いに悩んではいるんだけど、一方で思うのは「みんな大なり小なり同じことは感じてるんじゃないか」ということ。

 

自分と他人の感覚の違いを一切感じない人間なんていないんじゃないか。

 

ただそこをどれだけ突き詰めて考えるかという話で、「まぁいっか」で終わる人もいれば「それはなぜなんだろう、どこがどういう風に違うんだろう」と考えぬく人もいるというだけの話なんじゃないかな。

 

それは興味のベクトルの話で、たぶんみんな自分の興味のあることについては結構考えてるんだろう。

 

僕はこういう話について考えるのは好きだけど、芸能人の話とか全く興味ない。

一方で、芸能人の恋愛関係をいろいろ夢想するのが楽しい人もいるんだろう、たぶん。

 

 

 

普通に生きるとは②

私が普通を解釈すれば、それは「物事を考えすぎない人間」であり、そんな人間がこの世にちゃんといるのかどうかというのはわかりませんが、「みんなが考えないことを、お前は考えているのだ」という(多くの人からの)ことばに当てはめて考えると、きっとみんなは物事を考えすぎずに生きているのでしょう。

 

僕なんぞがぜーたさんと同じ目線で物事を語るのはおこがましいけど、「みんなは物事を考えすぎずに生きている」というのは僕も思ったことがある。

 

でもたぶんそれは(さっきも言ったけど)単にベクトルが違うってことなんだよね。

みんな自分の興味あることについてはいろいろと考えているけど、そのベクトルが自分と似た方向を向いてる人が多いか少ないかって話でね。

 

 

ただベクトルがちょっとずれてるというだけの話で、ぜーたさんもまた普通の人間なんだと思う。

実際のところは分からないけどね。

まずもって僕が普通の人間かもわからないし、そんな僕が言う普通の人間も本当かどうかは分からないけれど。

 

 

普通に関する悩みについて

 

私は結婚をしたいし、子どもも欲しいと考えています。

 

結婚できるかについての不安はまた別にあるとして……。

生まれてもない子どもに対する心配や申し訳なさが頭をもたげるのです。

「生まれてくる子どもはきっと自分たちよりも苦しい世代だ。子どもをもったばかりに、その子どもが苦しむなら、彼または彼女が生まれてきた意味は何だったのか」と。

 

これについては100%共感する。

僕も結婚したいけど、僕なんかが人の親になっていいのだろうかっていう思いは常にある。

 

僕がこの問題に関して思ってる1つの答えは「たくさんの選択肢を提供できる人間になる」ということ。

 

 

僕が普通なのかもわからないし、そもそも何が普通なのかもわからない。

何が子供にとってベストなのかなんてのはもちろん分からない。

 

 

そんな僕が子供に自分のモノの見方を押し付けるのはエゴでしかないだろう。

ならば子供に委ねるしかないんじゃないかなっていう。

 

できる限り多くの考え方、モノの見方を教えてあげて、その中から好きなものを選んでもらうしかないんじゃないかなっていう。

 

僕はこう思うけど、世の中にはこういう考え方もあって、正解は人それぞれなんだよっていう姿勢でいくことが1つの答えなんじゃないかなと今は思ってる。

 

 

 

最後に

 

結論は特にない、ただの感想記事を書いてしまったよ。

強いていうならベクトルの向きが違うだけで人間ってみんな構成要素としては似たようなものなんじゃないかなと最近思うって話なのかな。

読んでくれた人がいたらありがとう。